火曜日 6月 19, 2012 at 9:17

twinleaves:

6月18日 撮影/小関与四郎
 最近投稿した濱谷さんの混浴写真に合わせて、この小関さんの写真をアップ。
 当時は当たり前のことであっても、現在を生きる私達にとって当たり前でないことがある。
 にもかかわらず、私達の多くは、現在を生きる自分の価値観や偏狭な視点を、過去にもあてはめてしまう。過去にかぎらず、異国の人たちにもあてはめてしまう。
 もっとも大きなポイントは、人間の幸福観だ。こういう写真を見て、男が女を奴隷のように使っていると反発する人がいる。しかし、実際は、男にはできない仕事を女がしているにすぎない。水温が低くなると、皮下脂肪の少ない男の身体だと耐えられなかったそうだ。
 また当時の人たちは大変だなあ、それに比べて今の我々は楽で幸福だなあと単純化する人もいる。
 しかし、明治の初期の写真で、小柄な老婆が、大きな米俵を軽々と肩に乗せて運んでいる写真がある。我々が大変だなあと思うのは、機械に頼りすぎた我々の身体が、重いものをもてず、暑さ寒さに弱く、すぐに辛くなるようになってしまっているだけなのだ。そして、身体を巧みに使う方法だって忘れてしまっている。現在でも、アフリカには、水がいっぱいに入った大きな水瓶を頭に載せて軽々と運び、決して落とすことのない女性たちがいるが、人間の身体は、私達が想像しているよりも遥かに精巧で頑丈なのだ。現代人は長生きする。だからといって、丈夫な身体を持っているわけではない。ダマシダマシ、長い時間を過ごしているだけにすぎない。
 ゾウガメのように、できるだけエネルギーを使わないように生きている動物は、百年を超えて生きるが、生の充実度は年数では計れない。
 また、昔と今では、恥の概念も違ってくる。明治時代の初期に日本を訪れた外国人が、家の軒先で裸で水浴びをしている女性を見て、非常に驚いたと記録している。
 明治の初期まで、女性は非常に大らかだったようだ。そして、家の前を通り過ぎる男たちも、べつだん、ジロジロと見たりしなかったそうだ。
 それは女性蔑視ではない。”どうでもいいこと”と、”大事にすべきこと”の範疇が、今と昔で違っていただけのこと。
 今の私たちが、”どうでもいい”と思っていることは、普遍的に”どうでもいいこと”なのではなく、色々な環境要因によって、私達の感性や思考がそういう風に作られているだけ。同様に、私達が大事に思っていることもまた、普遍的に”大事なこと”ではない。 
 この写真は、わずか40年~50年くらい前のもの。
 人の半生の間に、社会の価値観は大きく変容する。

(以下は、以前にアップした時の記事。)
 今年の連休中に能登で漁師の逞しさに触れて思い出したのが、この小関与四郎さんの九十九里浜の写真。小関さん自身も豪快な人だが、彼は、30年以上にわたって九十九里だけを撮り続けている。この写真は、戦後のものであり、ほんの30年ほど遡ると、日本にはこういう光景がまだ存在していたのだ。
 九十九里浜は、ご存知のとおり、砂浜の遠浅海岸であり港がない。だから、漁に出る時には、砂浜から海へ船を運び、戻ってきたら、海から砂浜に船をあげる。この重労働を、なんと女が負っている。とりわけ冬、水温が低くなると男の身体だと耐えられず、男よりも冷温に強い女に頼るしかないらしい。女は、凄い。
 九十九里浜の海岸は、戦後、護岸工事が繰り返され、かつての面影は急速に失われている。いくらコンクリートで固めても、台風に直撃されると壊れてしまうので、修復工事ばかりやっているらしい。さらに、海岸線をコンクリートで固めたため、近年、砂浜は急速にやせている。
 九十九里にかぎらず、日本各地で同じようなことが行われている。何百年、何千年と続けてきた人間と自然の営み。海に削られた陸は、他のどこかで砂浜となる。そのリズムを、この数十年の間で、人間が狂わせてしまった。
 人間は、欲心によって何でもかんでも自分のものにしたがるが、けっきょく、それ以上のものを失っている。
 堂々と裸になって海で働く女性達の神々しいまでの眩しい姿を、日本ではもはや見る事はできない。
 この写真は、風の旅人の第29号で特集した。→http://www.kazetabi.com/bn/29.html

twinleaves:

6月18日 撮影/小関与四郎

 最近投稿した濱谷さんの混浴写真に合わせて、この小関さんの写真をアップ。

 当時は当たり前のことであっても、現在を生きる私達にとって当たり前でないことがある。

 にもかかわらず、私達の多くは、現在を生きる自分の価値観や偏狭な視点を、過去にもあてはめてしまう。過去にかぎらず、異国の人たちにもあてはめてしまう。

 もっとも大きなポイントは、人間の幸福観だ。こういう写真を見て、男が女を奴隷のように使っていると反発する人がいる。しかし、実際は、男にはできない仕事を女がしているにすぎない。水温が低くなると、皮下脂肪の少ない男の身体だと耐えられなかったそうだ。

 また当時の人たちは大変だなあ、それに比べて今の我々は楽で幸福だなあと単純化する人もいる。

 しかし、明治の初期の写真で、小柄な老婆が、大きな米俵を軽々と肩に乗せて運んでいる写真がある。我々が大変だなあと思うのは、機械に頼りすぎた我々の身体が、重いものをもてず、暑さ寒さに弱く、すぐに辛くなるようになってしまっているだけなのだ。そして、身体を巧みに使う方法だって忘れてしまっている。現在でも、アフリカには、水がいっぱいに入った大きな水瓶を頭に載せて軽々と運び、決して落とすことのない女性たちがいるが、人間の身体は、私達が想像しているよりも遥かに精巧で頑丈なのだ。現代人は長生きする。だからといって、丈夫な身体を持っているわけではない。ダマシダマシ、長い時間を過ごしているだけにすぎない。

 ゾウガメのように、できるだけエネルギーを使わないように生きている動物は、百年を超えて生きるが、生の充実度は年数では計れない。

 また、昔と今では、恥の概念も違ってくる。明治時代の初期に日本を訪れた外国人が、家の軒先で裸で水浴びをしている女性を見て、非常に驚いたと記録している。

 明治の初期まで、女性は非常に大らかだったようだ。そして、家の前を通り過ぎる男たちも、べつだん、ジロジロと見たりしなかったそうだ。

 それは女性蔑視ではない。”どうでもいいこと”と、”大事にすべきこと”の範疇が、今と昔で違っていただけのこと。

 今の私たちが、”どうでもいい”と思っていることは、普遍的に”どうでもいいこと”なのではなく、色々な環境要因によって、私達の感性や思考がそういう風に作られているだけ。同様に、私達が大事に思っていることもまた、普遍的に”大事なこと”ではない。 

 この写真は、わずか40年~50年くらい前のもの。

 人の半生の間に、社会の価値観は大きく変容する。

(以下は、以前にアップした時の記事。)

 今年の連休中に能登で漁師の逞しさに触れて思い出したのが、この小関与四郎さんの九十九里浜の写真。小関さん自身も豪快な人だが、彼は、30年以上にわたって九十九里だけを撮り続けている。この写真は、戦後のものであり、ほんの30年ほど遡ると、日本にはこういう光景がまだ存在していたのだ。

 九十九里浜は、ご存知のとおり、砂浜の遠浅海岸であり港がない。だから、漁に出る時には、砂浜から海へ船を運び、戻ってきたら、海から砂浜に船をあげる。この重労働を、なんと女が負っている。とりわけ冬、水温が低くなると男の身体だと耐えられず、男よりも冷温に強い女に頼るしかないらしい。女は、凄い。

 九十九里浜の海岸は、戦後、護岸工事が繰り返され、かつての面影は急速に失われている。いくらコンクリートで固めても、台風に直撃されると壊れてしまうので、修復工事ばかりやっているらしい。さらに、海岸線をコンクリートで固めたため、近年、砂浜は急速にやせている。

 九十九里にかぎらず、日本各地で同じようなことが行われている。何百年、何千年と続けてきた人間と自然の営み。海に削られた陸は、他のどこかで砂浜となる。そのリズムを、この数十年の間で、人間が狂わせてしまった。

 人間は、欲心によって何でもかんでも自分のものにしたがるが、けっきょく、それ以上のものを失っている。

 堂々と裸になって海で働く女性達の神々しいまでの眩しい姿を、日本ではもはや見る事はできない。

 この写真は、風の旅人の第29号で特集した。→http://www.kazetabi.com/bn/29.html

(出典: kazesaeki)

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